説教は定期的に個人個人の勉強のために用意します。慣例として時節に沿った内容のものを聖書の一節から引用して書かれます。この説教はウエブサイトには、英語と日本語の両方で検索できるように掲載されています。
CHURCH OF IRELAND
(TRADITIONAL RITE)
Trinity Season
アイバン・コスビー牧師
本日の聖書: エゼキエル2章Ⅰ-7節 コリントの信徒への手紙12章2-10節
聖書引用 口語訳聖書
聖句: 「人の子よ、自分の足で立て。私はあなたに命じる。彼が私に語りかけたとき、彼が私の中に入り、私を自分の足で立たせた。私は語りかける者に耳を傾けた。」(エゼキエル 2:1-2)
聖句引用口語訳聖書)
クリスチャンである私たちにとって、今日の聖書の個所は福音を伝える者として主イエスに仕えるようにとの明確な神の呼びかけです。クリスチャンでない人々にとっては、何故キリストに従うことを拒否するのかと、考え直すように求める神の声なのです。
私たちはどれ程、この神の求めに応じるように促す小さな声に、耳を傾けようとはしなかったことでしょうか。その声は耳を背けたくなるほど気の進まないものだったのでしょうか。やがて、私たちはこうして段々に鈍感になりその声にすら気づかなくなっていきます。そして意識の届かない深みに落ちていきます。エゼキエル、モーゼ、弟子たちがこの神の呼びかけにどのように応えていったのか、わたしたちの場合と比べてみるのも何かの参考になることでしょう。
最初に、神はわたしたちが聖なる土地の上を歩いていることに気づかせて下さいます。神は「人の子よ、自分の足で立て。私はあなたに命じる。」とエゼキエルに語りかけています。モーゼには、「ここに近づいてはいけない。足からは履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」(出エジプト記 3:5b)と語られました。立っている状態を保つには注意力を集中させる必要があります。
もし、わたしたちが自らを神の証人として委ねるなら、神の言葉に耳を傾けそれを理解しようとし、聖なる土地の上に立っていることを自覚します。そして神に敬意の念を払いながら神に近づこうとします。モーゼは燃え上がる藪の中に消すことのできない火を経験しました。弟子たちはペンテコステで頭上に燃えている聖霊の火が降りてくるのを経験しました。私達が聖書の中で語られる言葉に身を沈めるとき、もっと神を知りたいと消すことのできない激しい欲望にも似た願望を抱くのではないでしょうか。
わたしたちの最初の反応は、ペテロがイエスに仕え、イエスの護衛に当たっていたとき、誤って大祭司の召使の耳を切り落としてしまったように、先走って衝動的な行動にでることがあります。また、モーゼは神に仕える気持ちが強すぎたため一人のエジプト人を殺してしまいました。衝動的な行動にでることは自分自身やその名声のみならず神の名を汚すことにもなりかねません。 何も考えずに行動が許されるのは、聖霊の恩寵をいただく為に心を広く開けることだけです。このことに気づいてほしいのです。つまり、神がわたしたちに言おうとしていることを聞き逃さず、喜んでそれに応えるべく立ちあがることです。
私たちが先ず示すリアクションは、私たちに求められていることの重大さと将来性に愕然とすることです。エゼキエルの言葉が示すように、私たちの最悪の恐怖は現実のものとなります。「人の子よ、私はあなた達をイスラエルの人々、私に逆らった反逆の民に遣わす。彼らはその先祖達と同様に私に背いて、今日のこの日に至っている。恥知らずで、強靭な人々のもとに私はあなたを遣わす。 彼らに言いなさい。 主なる神はこう言われると。」 (エゼキエル2:3.4)
同様なことを神はモーゼにも言われました。 「今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。我が民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」「しかし、私は強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。」(出エジプト記3:10.19) イエスは弟子たちにこう言われました。 「むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 行って『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、らい病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:6~8)
又、 「だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:19.20a) と、言われたのです。それで大丈夫ですが、主がこうも言われたことを思い出してください。「見よ、わたしはあなたがたを、狼の真ん中に羊として遣わす。それゆえ、蛇のように賢く、鳩のように純真であれ。」
さらに、弟子たちがイエスの言葉を伝えようとしている同じ人々について語ってこう言われています。 「だから、神の知恵もこう言っている。『私は使徒たちや預言者を遣わすが、人々はその中のある者を殺し、ある者を迫害する。』」 (ルカ11:49)
また、別の場所ではこう言っておられます。 「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、私のために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証をすることになる。」 (マタイ10:17.18)
もしこれで十分でなければ、最後の晩餐でこう警告されています。 「人々が私を迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。私の言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、私の名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。私をお遣わしになった方を知らないからである。」 (ヨハネ15:21b)
これは誰もが恐怖に震えるほどのものなのです。それで、神はエゼキエルにどのように言ったのでしょうか。 「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、サソリの上に座らされても、彼らを恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」 (エゼキエル2:6)
またモーセは、私たちと敵対者の両方を包含する状況全体をコントロールしているのは彼ではなく神であるため、恐れる必要はないことを学びました。 「私は、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている。私は自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなた達を去らせるであろう。」 (出エジプト記3:19.20) イスラエルの民を、エジプトの地から乳と蜜の流れるカナンの地へ連れ出したのは、モーゼではなく神であるからです。(出エジプト記 3:17)
イスラエルの民の出発に先立って、エジプトでの疫病の目的は、ファラオから逃れることです。モーゼの霊的威光は、まぎれもなく聖書の中の神が全能であり、ファラオでもエジプトの神々ではないことです。神こそが、権能の究極の源なのです。「私があなたの手に授けたすべての奇跡を、心してファラオの前で行うがよい。私が彼の心をかたくなにするので、彼は民を去らせないであろう。」 (出エジプト記4:21) 「私がエジプトに対して手を下し、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、私が主であることを知るようになる。」(出エジプト記7:4b、5a) イスラエルの人々は、エジプト軍に取り囲まれた時や紅海の水が二分された時など、全ての出来事を司っているのはモーゼではなく神であるということを疑ってはいなかったはずです。
モーゼは何を為すにも無力でありました。モーゼがしたことはただ、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かに見ていなさい。」 (出エジプト記14:13a、14) と人々を急がせることでした。
神は、わたしたちが言葉を失うほどに全てを完全に管理されています。 何と言ったらよいのか分からないほど無力であると、自らを弁解しているモーゼに神はこう語っておられます。 「さあ、行くがよい。この私があなたの口と共にあって、あなたが語るべきことを教えよう。」(出エジプト記4:12b)
エゼキエルにはこう語られました。 「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたは私の言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。」(エゼキエル2:7a) キリストは弟子たちにこう言われたのです。 「引き渡された時は、なにをどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」と。 (マタイ10:19.20)
わたしたちは何を見い出すのでしょうか。神殿警備隊達はペトロとヨハネが、イエスに起こった死者の中からの復活を述べ伝えた、とのかどで二人を捕らえて、最高法院と大祭司の前引きずり出しました。
ペトロは聖霊に満たされて彼らに立ち向かいました。「ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。」(使徒言行録4:13a) 最高法院はこの二人の取り扱いに苦慮し一時休会し、再び二人を呼び戻して、決してイエスの名によって話したり教えたりしないように言葉で忠告したのでした。
「しかし、ペトロとヨハネはこう答えた。『神に従わないであなた方に従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。』 議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからである。」 (使徒言行録4:19-21)
何故なら、キリストはわたしたちの内に居られ、わたしたちに山上の説教の中で言われたように、私たちに語るのです。「義のために迫害される人は、幸いである。天国はその人達のものである。 私のために罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者達も、同じように迫害されたのである。 あなたがたは地の塩である。」 (マタイ5:10~13a) 繰り返し、イエスは、わたしたちは恐れることはないと言われます。証人となるべき呼びかけに応える中で、私たちはイエスが仰せられたことを、どこででも覚えておかなければなりません。 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:8b)
キリストがご自分に先だって、オオカミの群れの中の子羊のように使徒たちを送る、と言われましたが、先の見通しがどんなに暗い状況下でも、福音を伝える者として、どのように彼らを送りだしたかを、わたしたちは胸の内に留めおかなければなりません。 「ご自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。」 (ルカ 10:1b)
それは、どんなに状況の悪い所へ行かざるをえない時でも、わたしたちは一人で行くのではないのです。どこに行ってもいつもキリストがそこで支えていて下さっています。そこは、あらかじめキリストを迎える準備ができている場所で、わたしたちはただそこへ赴くだけなのです。そうした状況は、わたしたちがただそこにいるだけで、受け入れ準備が整うのです。
それでも、そこにもやはり、キリストやわたしたちが行くのを、快しとしない人たちがいますが、彼らこそが気の毒な人たちなのです。 「しかし、町に入っても迎え入れられなければ、広場でこう言いなさい。『足についたこの町の埃さえも払い落して、あなた方に返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』」と。(ルカ10-11,12) 更に、今日の福音では、キリストも迎え入れてもらえず、苦しまれたことを想い起こしてくれます。 「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」(マルコ6:5) わたしたちにとっても同じことです。
わたしたちに求められているのは何でしょうか? 第一に、わたしたちは祈るように求められています。そして、自らの信仰の弱さを強めて下さるように、祈らなければなりません。モーゼや弟子たちのように、憂欝に思える仕事が課せられると、わたしたちは押しつぶされてしまいがちなのです。 悪霊に取り付かれた子を治してもらうために、イエスの元へ連れて来た一人の父親のように私たちは弱いのです。 その時イエスは信じるのなら、何も嘆き苦しむ必要はなく、すべてのことは可能になる、とその父親に言われました。 私たちは彼のように苦悩で叫ぶ必要があります。「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」 (マルコ9:24b)
私たちに送られているその人、知り会いであろうともなかろうとも、その人のために寛容であるように、祈らなければなりません。 イエスが伝えたみ言葉を聞き、受け入れ、彼の意志に沿い、自分の考えでその命令を惑わすことなく、人々に伝えるにふさわしい器になるようにわたしたちは祈らなければならないのです。 「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます 天にいます方よ。 御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ はしためが女主人の手に目を注ぐように わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 憐れみを待ちます。」 (詩編123: 1、2a)
私たちは神の王国が近いことを、明らかに証言するのに値するよう、知恵と助けを求めて祈らなければなりません。最後に、私たちは聖パウロのやり方で感謝を捧げる必要があります。 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神の間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者達のために死んでくださった。」 (ローマ人の信徒への手紙 5:1-6)
第2として、聖パウロがコリント人へあてた手紙に書き記したことを、心に留めて置かなければなりません。 「すると主は『私の恵みはあなたには十分である。力は弱さの中にこそ発揮できるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りにしましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いのです。」 (コリントの信徒への手紙 12:9-10)
第3として、私たちはキリストの任命を受けた使徒たちのように自らの身を置かなければなりません。 「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。(彼らは反逆の家なのだ。) しかしながら、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」 (エゼキエル2:7a、5a)
キリストへの愛で、キリストを知っている人にも、まだ知らないでいる人にも、聖ペテロと一緒になって言いましょう。「モーゼは言いました。『あなた方の神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような予言者をあなたがたのために建てられる。彼が語りかけることには何でも聞き従え。この予言者に耳を傾けないものは皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』・・・・・あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたがたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。それで、神はご自分の僕を立て、まずあなたがたのところに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」 (使徒言行録 3:22、25)
わたしたちは単にはっきりと何が真実で何が神の言葉なのかを声をあげて語らなければなりません。もうそれ以上はできないのです。後は神様がして下さいます。
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