説教は定期的に個人個人の勉強のために用意します。慣例として時節に沿った内容のものを聖書の一節から引用して書かれます。この説教はウエブサイトには、英語と日本語の両方で検索できるように掲載されています。
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CHURCH OF IRELAND
(TRADITIONAL RITE)
試練にどう取り組む
アイバン・コスビー牧師
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聖句:主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ
マタイによる福音書 4:10
聖句引用 口語訳聖書
Ⅰ.手本となるキリスト
私たちが見倣うべき手本として、キリストの活動の範囲の偉大さを展望することはたやすいことです。誰もが知っている例は、もちろん人類のために十字架上に身を捧げた自己犠牲でしたが、他にも良い事例が沢山あります。井戸の傍らでサマリアの女に彼女の罪深さを気づかせたことは、福音を伝える者の手本となります。またガリラヤ湖畔でのペテロや、姦淫の罪で捕らえられた女に対しては”罪の許し”の模範となります。さらにヨハネ 7章、8章にわたっての神殿の長きにわたる討論は、問題をどう扱ったらよいかの好例です。ここでは先ず、試練(誘惑)に対してどう取り組むべきかの問題を取り挙げます。
Ⅱ.試練(誘惑)に打ち勝つ
1.私たちは次のことを心に留めて置かなくてはなりません。第一に、神の子であるイエス・キリストに罪はなく、すでに誘惑に勝利された方ではありますが、神が人の姿となられてたキリストは、私たちの誰とでも同じように、試練の攻撃を受けられたのです。へブライ人への手紙には次のように書かれています。
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」ヘブライ人への手紙4章15節
2.次に、サタンは誘惑を画策するものであるかも知れませんが、最終的に罪や誘惑を裁定するのは神であり、サタンではありません。マタイによる福音書 4章1節には「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。」とあります。使徒マルコはもっと詳しく述べています。 「それからすぐに、御霊がイエスを荒野に追いやった。イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。」マルコによる福音書 1章 12、13節
3.3番目として、私たちは聖書の言葉を身につけ試練(誘惑)に立ち向かうべきです。キリストはまさしくそのようにしています。2番目の試練(誘惑)では、サタンもこれを知っていて、聖書の言葉を引き合いに出します。しかし、サタンの引用はかなり間違っていて、私たちはその危険を含んでいることに気づかなければなりません。私たちは全体を通して聖書の真理をしっかりと身に着ける必要があります。
Ⅲ.ヨブの試練
1つの例としてヨブ記を取り上げます。サタンがヨブに神への信仰を捨てさせてようとしても自由にさせておきます。でもそれは限度いっぱいまでであって、命を奪うことまでは許しません。ヨブに気付かれずに、サタンの誘惑の背後での神の目的はヨブの信仰と正義を証明することでした。でも、もっと大事なことは神がどれほどヨブに信頼を置いているかということでした。私たちの学びは、試練に遭う時は、自分が思っているほど孤独ではないし、または脆くもありません。
神は注意深く見守り、私たちの状況を理解しておられます。神は私たちに限りなく信頼を置いておられるので、どんな試練に陥ったとしても大丈夫だと信じ、ヨブのように今試されている時だなと自覚して心に留めて置くなら、どんな試練にでも立ち向う勇気が与えられます。神に見つけてもらえないような状況はありません。しかし、サタンの目的はヨブにしたように、私たちの正しい思考力を眠らせ、神から引き離すことでした。
私たちは何でも自分自身で我慢して、耐え忍ばなければならないと感じています。それは神との関係を断絶させることです。神は私たちが苦しい時はヨブの場合と同じように共にいてくれて、私たちの対処能力以上には試練(誘惑)に陥らないようにしてくれます。私たちは苦境の中にあっては、神との関係が理解できなくなり、逆に神に立ち返る機会ともなります。ヨブは神から栄光をもぎ取られ、そのことから来る嘆きすらを無視されたように思いました。ところがそれに対して神の怒りはヨブの上に向けられました。ヨブはすべてのものから見捨てられたように感じ、孤独でした。しかし苦境の中でこそ、神の指揮の中に従順でなければならないことに気づいた時ヨブはこう言うことが出来ました。
「親しい人々は皆わたしをいみきらい、わたしの愛した人々はわたしにそむいた。わたしの骨は皮と肉につき、わたしはわずかに歯の皮をもってのがれた。わが友よ、わたしをあわれめ、わたしをあわれめ、神のみ手がわたしを打ったからである。
あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、わたしの肉をもって満足しないのか。 どうか、わたしの言葉が、書きとめられるように。どうか、わたしの言葉が、書物にしるされるように。
鉄の筆と鉛とをもって、ながく岩に刻みつけられるように。 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。」ヨブ記19章19節―27節
本日の福音書講読に記録されている試練(誘惑)は、キリストに向けて書かれています。しかし試練に遭遇することで神を否定させる点においては、等しく私たちにも当てはまります。それらはマタイによる福音書に順を追って記載されています。最初の誘惑(試練)は、キリストが実際に神であるかどうかという疑問です。
2番目は、神は本当に存在するのか。3番目は、神と人間が創り出した別物(世の権力)と取り換えるという問いかけ。これら三点は私たちすべての人類に課せられる最も基本的な誘惑です。
Ⅳ.最初の誘惑:イエスは真の救い主か
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。マタイによる福音書 4章3節
最初の言葉で、キリストは神の子ではないかもしれない、という可能性が疑われます。その誘惑は石をパンに変えて見せることでした。キリストは、ほぼ何もない状態から、5000人にパンを与えたような奇蹟をされたことはよく知られています。その奇蹟の中で、人間の人生では一番重要なものは何なのか、と人々の注目を引くことが出来ました。
しかしこの時キリストは、そのサタンの巧みな言葉を拒否し、聖書の言葉を引用して応答しました。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」申命記 8章3節 その引用から、このような試練にどう立ち向かったらよいか分かります。
第1に、常に神の命令に従順でありなさい。「わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。」申命記 8章1節
第2として 神が私たちのためにしてくれたすべてのこと、そして、それはどうしてなのかを思い起しなさい。 「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。」申命記 8章2節
第3として、ヨブの場合のように、神は私たちの上にさらに大きなご計画を心に描いておられることを、謙虚に認めなければなりません。「それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」申命記8章3節
同様に、5,000人に食事を与えたのち、キリストは肉体的な飢えを満たすために、より多くの無料のパンを求めて彼を追いかけてくる人々に、神の大きなご計画に注目するように促したのです。
「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである』」。ヨハネによる福音書 6章26,27節
第4として、物事の矯正に伴う痛痒は拒否できません。(※しかしウェールズ議会は子供に対しての体罰を禁止しました。)「あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。」 申命記 8章6節 。
Ⅴ 第2の誘惑 神の実在を証明する
「それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。マタイによる福音書 4章 5,6節
上の句を推測すると、もしキリストが神であるとすれば、サタンの要求であれ、神を試そうとする人からの要求であっても、その挑戦を受けて証明すべきではないかということではないでしょうか。キリストが飛び降りて無事であるなら、サタンはキリストが神であると信じるだろうという道理からです。
詩篇91篇のサタンの間違った引用から判断すると、もし神殿の頂きからキリストがヒノム渓谷に約450フィート(137メートル)飛び降りたなら、天使たちが受け止めてくれるはずだと示唆しました。実際の聖句には次のように記されています。「これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。」詩編91編11,12節
しかし、サタンは(あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである)の聖句を省いてしまっていました。その引用が詩編の中の文脈で読んでみると、最初の2節の主題が重要であると分かります。「いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は 主に言うであろう、『わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神』と。」詩編91篇 1、2節
詩編の作者は、神は盾のように彼を守り、結局はすべての疫病から救って下さる。だから何も恐れることはないと書いています。危機の時に私たちの避難場所として神があるなら、邪悪なものは私たちに降りかかってはきません。神はみ使いたちに命じて私たちを守らせます。省略された聖句「あなたの歩むすべての道であなたを守らせられる」はみ使いの役目であり、神ではないと暗に示しています。
さらに重要なことに、み使いとは人間の躓きにブレーキをかけてくれる霊的な存在です。だがしかし、その聖句は悪から守ってくださる神の備えの声としてもとらえることが出来ます。詩編の中で作者は2つの声として届けています。
1~13節では、作者は神の守りの中で読者は安全でいると言い安心させます。14~16節では、神を愛して止まない詩編の作者のように、神は信じる者を罪の縄目から救い出し、神の御座に引き上げ、彼の叫びに応えられます。神の救いと誉は、信じる者に長寿と永遠の救いをもたらされるのです。詩編の文脈中、サタンが合間に挟んだ言葉は’red
herring’ 人を惑わすものです。
2番目の試練(誘惑)は、私たちが信仰することの条件は何であるかを神に指図する代表的な例です。決まってそれは人間側からの考え方になります。磔刑場で通行人によって発せられる非難の下の声と比べてみて下さい。
「祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、 『他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。』」マタイによる福音書 27章 41節、42節
サタン同様、人間は自分を神より偉い者のように思っています。人間社会の規則に忠実であることは、キリスト信仰の土台とはなりません。この誘惑に対してキリストはサタンに申命記の6章16節「あなたがたの神、主を試みてはならない。」を引用して答えました。神を嘲ったり、軽く見たりしてはならない。その引用の一節で、神を識(し)ることを次のように述べています。
(a)「主が定めるもろもろの定と、命令を守りなさい」2節 ;
(b)「われわれの神、主は唯一の主である。」を受け入れなさい 4節
(c)「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」5-6節
Ⅵ. 第3の試練(誘惑)神を捨て世の権力を選ぶ
「次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう』。」マタイによる福音書4章 8節、9節
サタンはイエスがすでに天地、万物の支配者であることを忘れ去っているようでした。 間違いは、サタンが与えると言った王権は、人間の罪の贖いの目的の為にキリストが十字架上で耐え忍ばなければならなかった忍苦から解放することだけでした。言い換えれば、責任を伴わない権力をキリストに申し出ています。それは独裁制を招きます。
神が真に人間に求めて許容できる権威は、神の王国に仕える代表者です。実際にイエスが弟子の足を洗ったように、人に尽くすことを本質的な信条としている人です。議論の余地がないことは明白なことです。残念なことに、私たちが生きている時代は、優先すべきは自己主張の権利であり、大体において権威、とりわけ権威を持っている人を拒否します。
3番目の誘惑の答えは言下にサタンとそれに由来するすべてのものに罪の宣言をし、追放したことです。「『サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある』」 これは申命記 6章13節 「あなたの神、主を恐れてこれに仕え、その名をさして誓わなければならない。」 に言及されたものです。文脈には誘惑に陥る道をもし選べばどうなるかという厳しい警告があります。
「あなたがたは他の神々すなわち周囲の民の神々に従ってはならない。 あなたのうちにおられるあなたの神、主はねたむ神であるから、おそらく、あなたに向かって怒りを発し、地のおもてからあなたを滅ぼし去られるであろう。
あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。あなたがたの神、主があなたがたに命じられた命令と、あかしと、定めとを、努めて守らなければならない。
あなたは主が見て正しいとし、良いとされることを行わなければならない。そうすれば、あなたはさいわいを得、かつ主があなたの先祖に誓われた、あの良い地にはいって、自分のものとすることができるであろう。」 申命記 6章14節~18節
使徒ペテロが、イエスは救い主であるとの告白によってキリストが感心して述べた言葉から勇気を得た時も、またそれから人間の贖いの為に神の予定の中で、その結果もたらされた条件を拒否した時も、キリストは毅然として揺るがぬ態度でした。
「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」マタイによる福音書 16章 23節
受難節の時期に私たちの心の状態をこの説教によって反映させましょう。もし、試練に遭ったら、キリストが試練を乗り越えた方法で対処しましょう。新しいワインを古いボトルに入れないように、と心して新しいスタートを切りましょう。最も重要なことはヨブのように信念を高く心に掲げることです。
「わたしが恐れるときは、あなたに寄り頼みます。 わたしは神によって、そのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。」詩編 56章 3節、4節
そして、私たちに投げかけられた主の最後の言葉です。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。マタイによる福音書 28章 20節b
なぜ女性牧師は認められないのか
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