何故女性は聖職者(司祭、牧師)として認められないのか1)
アイルランド聖公会(伝統儀式堅持)
アイバン・コスビー牧師
論文要旨
聖書には女性の聖職者(牧師、司祭)に関する規定がないため、キリスト教会には女性を長老(牧師または司 祭)に任命する役職はありません。そのため、長老職を女性に拡大する論拠は別のところで探さなければならず、
それはストア学派、エピクロス派、G.W.F.ヘーゲル、フランクフルト学派の批判理論によって提唱された 西ヨーロッパの哲学的思想にまで遡って、求められてきました。
宗教は、どのような社会においても、その道徳的価値観にとっては、人生の基礎的なもので す。それ故、キリスト教会に女性の牧師、或は司祭が叙階(容認)されるかどうかは、キリスト教社
会においては、付随的なものであり、一般にはあまり重要でないように見えるかもしれません。しかし実際には 女性聖職者はすでに活躍しているのであり、その社会がどのように発展していくかを理解するためにも、女性の牧師を正当化している、論理の帰結を追跡することが重要です。
本稿では、この論理的な進行がすでに飛躍して、性的堕落、獣姦、女性性と男性性の両者の卑下、政治的・社会的無政府状態、現実と虚構の混同へとつながっており、これらすべてが新たな規範になるとも論じています。この論文の目的は、これらの疑問符を取り除くことにあります。
1)女性の叙階(聖職者の権能を与える)を正当化するための初期の試みは、「なぜ女性司祭がいないの か?」でした。(Rt. Rev. W.G. Wilson,
Lord Bishop of Kilmore. (牧師W.G.ウィルソン、キルモアの主教。 Elphin and Ardagh, 1988)
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1.イントロダクション
目的
本稿の目的は大きく二つに分けられます。 第一は、現代西欧諸国の世俗世界全般を解析し、特に西洋のリベラ ル(進歩的)なキリスト教世界の多くが、キリスト教会の牧師、司祭として、男性と同様に女性が務める事は、当然だとする考えを受け入れてきた理由を理解することです2)。
これはキリスト教界の歴史の中でごく最近の現象であり、20世紀の終わり頃に始まりました。それ以前 以降の聖書のどこにも女性の聖職者についての言及はありません。キリスト教世界に関する限り、女性の司祭や牧師の概念は聖書ではなく、西
ヨーロッパ/アメリカのいわゆる「啓蒙時代(17~18c)主義」に根ざしているものと思われます。それ以来「西洋文明」 に触発され、関連する,他の文化に広がっていきました。:英国国教会の聖餐式における女性の神権(神に仕える権能)への最初の叙階(信任式)は、ビクトリアの
ロナルド・オーウェン・ホール司教によって(香港とマカオ)で行われました。1944年3)にはフローレンス・リー・ティ ム・オイに叙階されました。
キリスト教世界は2,000年間に渡り、無数の文化で繁栄してきましたが、 そのうちのいくつかは母系制の性格を持つものがありました。これらの文化のど
れか一つでも、キリスト教に長く触れてきた人々は、正統派キリスト教の教えに妥協的な影響を与える機会 がありました。それでも、カトリック教会は、自らを律する方法の基礎として「御言葉」を断固として
保持してきました4)。
キリスト教世界を構成している要人たちが、自から非キリスト教の原則を吸収したことに気づくと、それはやがて、16世紀のヨーロッパで起こったような宗教改革につながり、あるいは日本の隠れキリシタンの場合のように消滅につながったのです。それまで、聖書全体を鑑みて、聖職は男性に与えられてきました。これらの事実だけをみても、女性を聖職者に任ずる正当性を、聖書(御言葉)に見つけることには慎重にならざるを得ません。
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2) 男らしさ・女らしさ参照。女性司祭と司祭という用語の微妙な区別と、女性の司祭職への叙階を促進する人々による後者の 用語の使用への消極性に関する分析。
3) これは非常に便宜的な問題でした。日本軍が彼の教区を制圧したとき。ホール司教はテンプル大司教に打ち明けました、「私は女 性の叙階の擁護者ではありません。
しかし、私は、教会の秘跡を持つために私の世話をすることに専念している会衆を、いかなる 偏見も妨げてはならないと決意しています。 Rose, Mavis
(1996)を参照してください。聖別された性差別からの自由 - 教会を変え る女性たち。クイーンズランド。オーストラリア:Allira Publications。129-149ページ。
4) 聖書に言及している「言葉」が基本であるというサンプル:例: 1ヨハネ1:1;使徒行伝19:20;ローマ10:8、1テサロニケ2:13;
1ペテロ 1:25。(NT)。民数記22:35-38エレミヤ7:2;エゼキエル書12:25(OT)
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旧約聖書と新約聖書の両方の聖書は、クリスチャンが2000年間どのように生活を秩序づ けるべきかについて、正しく理解し偽りを避けるために熟読されてきました。そして、20世紀後半までは、女性を司祭職に任命することの正当性を証明するための聖書を再解釈する試みは一度も
ありませんでした
5)。しかし、1980年代以降、女性の司祭職を容認する議論は確かにあり、それを支持する内容の節を聖書から読み解こうとするする試みがありました。
キリストは、当時の当時の通説を躊躇せずに正しました。宗教議会(サンヒドリン)やそのグループ(パリサイ人、サドカイ人、律法学者など)が聖書の解釈を誤解したり、偽って解釈したとき、キリストは彼らの偽った教えと誤りを正し、彼
らの思い込みを指摘しました。それは福音書全体を通して繰り返される現象です。典型的な例は、聖ヨハネ 福音書の第7章と第8章にあります。
キリストが後任の使徒を選ばれたとき、6)参照、その役目に適任と思われる女性は複数あったに もかかわらず、それを示唆する状況は少しも与えませんでした。もし女性が叙階されるべきであると
いう全能の神の御心であったなら、キリストは、はっきりとそう言われたでしょう。また、ユダヤ人 がこの問題に関して持っていたかもしれない誤解や女性蔑視的な考えを正したでしょう。
女性の司祭 職への叙階のための有効な聖書的基盤がないため 7) 、彼女たちの叙階のケースが他の場所で見つけら れなければならないとしても、驚くべきことではありません。それが明らかに可能であることが、この論文の論拠であり、女性が聖職者として容認されることの正しさを、18世紀の「啓蒙主義」の考え方に起源おいて正当化しました。これから示すように、女性が神権を持った聖職者とみなされる、(叙階)は聖書ではなく、人道主義的な哲学的原則に基づいた論の発展によるものです。
第二の目的として、この論文の重要な要件は、キリスト教世界だけでなく、キリスト教の原則と価値観 によって築かれてきた、西ヨーロッパやアメリカ文明にとって、この変化に乗り出す必然的な結果が、何であるかを見極めることです。これを説明するのに、より良い表現が欲しいのですが、西洋文明一般、特にアングロサクソン文明の出現によるその基盤は、
(人道主義である宗教)に 、置き換えられつつあることです。これを便宜上、西ヨーロッパヒューマニズム(WEH)と呼ぶ事に致します。
道徳的な正しさを決定するための様式が変化するにつれて、その結果を論理的に追跡調査する必要があ ります。この逸脱の論理的な結果を知るためには、先を見通すことが不可欠となります。この変容は“進歩” と呼ばれ、それ自体が偽りの作為的なプロパガンダ(布教活動)の発想です。この状況のより正確で公平な表現は”変 化”でしょうか。道徳的公正さのその様な大きな変化の論理的な結果は果たして何でしょうか?
女性の聖職者(司祭、 牧師)の任命へのケースは、キリスト教、聖書の道徳的秩序を人間主義的秩序に置き換える事から生じる変化 に由来します。それを理解すれば、女性を神権に叙階(聖職位に就けられること)する動きがどのように起
こったのか、そしてなぜそれが起こったかを理解することができます。
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5) 最も広く引用されているものの一つはガラテヤ人への手紙3章28節です。
6) マティアスがイスカリオテのユダの後任として使徒に選ばれたとき、確かに聖母マリア(ヤコブとヨハネの母、ヘロデ王の執事の妻ヨ アンナなどがそうであったように)は、使徒になるための基準を満たしていました。
キリストの初め(彼の洗礼)からキリストと共にいたこ と、そして彼の昇天を祝ったこと、そしてii. 証しをすること。 復活。 しかし、これらの女性は誰も使徒候補に挙がっていませんでした。
参照:使徒行伝1:20-26
7) この用語は、「すべての信者の神権」と混同してはなりません、 [ ιεροσύνη των πιστων ]は、すべての信者が善意で罪のための執り成しの犠牲(קורבן למען לחטא )に感謝して入る、感謝祭の信者の犠牲 קורבן של ההודיה への言及です。 私たちの主キリストが十字架上で達成されたことにより、キリスト教徒は罪から贖われました(בגאל)。これは、英語のPriestが意味するΠρεσβύτερος(長老)の概念とは何の関係もありません。
「道を間違えたヒューマニズム」注25、 および「Ⅱ私たちがどのようにして今ある場所にたどり着いたかの(自由)」を参照。
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次頁の、「私たちがどのようにして今いる場所にたどり着いたか」に続きます。
なぜ女性牧師は認められないのか
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