何故女性は聖職者(司祭、牧師)として認められないのか
アイルランド聖公会(伝統儀式堅持)
アイバン・コスビー牧師
II. 私たちがどのようにして今いる場所にたどり着いたか
1. ヘーゲルの公式
聖書の全体的な世界観は、絶対の原理に基づいて書かれています。「正しい」とは客観的かつ本質的に「間違」とは異なると、聖書の御言葉があります。したがって、神はご自分のイメージに人を創造されたとき、神にかたどって男と女に創造されたという事実[創世記1: 27]は、絶対者の原理を前提とすれば、神は人間ではなく、創造主であると理解することができます。 人間(Man)は被造物であり、女性は男性ではありません。このような概念は、絶対的な異りとして互換性がなく、混同されるべきではありません。これを代数的に表現すると、'a'
= 'a‘ ’b'=‘b’, ‘a' ≠ 'b.' となります。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル。 (1770-1831)は、「ヘーゲルの相対主義原理」を考案しました。それによって、相反する性質を持つもの(テーゼとアンチテーゼ)が結合し、それが次に新しいテーゼと結合してさらに統合し、より包括的な統合を創り出すという、この公式こそが、西洋の哲学的精神が「絶対主義の原理」を省き、それを「相対主義の原理」に置き換えることを可能にしたのです。その結果、認識された「違い」を偶発的なものとして退けることができました。違い(ここでは男女の違い)は今や程度の違いにすぎず、根本的な意味はありません。それは、あるエンティティ(実在)が他のエンティティと相対的または交換可能な方法で機能することを妨げるものではありません。なぜなら、一方または他方との間に本質的な違いがないからです。双方の違いと言いうるものは、それぞれの役割、意図、または機能において、根本的または基本的なものではありません。違いがあるといえども、それらは絶対的ではなく相対的、比較の問題です。
例えば、男性が「これは男のする仕事だから、女は女らしいことをすべきだ」と、言うことは出来ません。何故なら、女性の社会性は、もはや男性と何の変りもないからです。男女は双方とも実体(エンティティ)は交換可能になりました。どちらも「統合」の不可欠な部分です。
18世紀、ヨーロッパの哲学者や知識人の世界は、世界秩序を考案し、それを表現するために「啓蒙」というプロパガンダの言葉を採用しました。次の2世紀にわたって、この「啓蒙された」文明は、上記のヘーゲルの公式を全面的に受け入れ、それが西洋世俗世界とその影響下に浸透し、現代文化の基本原則となりました。このように特定された文明や世界秩序の中で考えると、これまでの絶対原理を基盤とした中では、女性が司祭になることは不適当であると言うことができますが、相対主義の原理に基づく世界では、もはやそう主張する事は出来ません。このように導かれ「啓蒙された」世界秩序の基本原則から外れてしまうからです。
これが、西ヨーロッパとその分派である北米大陸における西側リベラル・キリスト教が置かれている立場です。リベラルなキリスト教と識別できるものは、キリスト教の価値観、教え、原則を調整して、現代の世俗社会の相対主義的価値観に適合させようとする試みがなされたために生まれたものです。このことからも、女性の「叙階」の原動力は聖書的ではないことを繰り返し述べることが重要です。もし聖書からのものであるなら、女性の叙階は使徒時代からの既成事実であり、宗教改革で、聖書がどこに進むべきかについての基本的な源として、再確立されたときに取り上げられたでしょう。
この問題は、男性が出来ることは女性も同様に出来る、またその逆も真なりという問題ではありません。むしろ、彼らがそれ(司祭、牧師として神に仕えること)を行うべきかどうか、それが正しく適切かどうかの問題です。同じことが男性にも当てはまりますが、それは別の問題の配慮によるものです。
もしそうでなければ、非常に危険な前例をつくってしまうことにもなります。
単刀直入にひとつの例を挙げるとすれば、「人が誰かを殺すのは、単にそれができるからだ」、という理由だけで、それが正しいことになるのです。これは、いわゆる「ルネサンス」時代に提唱されたマキュアベリの原則です。
それはサディズムを正当化するものであり、当然のことながら、以来、西ヨーロッパやアメリカでは、サディズムの思想がますます一般に浸透しています。重要なのは、問題が起こされること以上に、それが正当化されることです。マルキ・ド・サドは、「事ができる限り、女を誘惑することは正しい」と主張しました。
2. 啓蒙主義:二つの聖書的概念の歪曲
ヨーロッパ啓蒙主義の根底にある規範は、ある意味でキリスト教の異端であると理解するこができます。二つの深いルーツを持つキリスト教聖書の概念が、WEH(西ヨーロッパヒューマニズム*本文1。後半部参照)によって採用されましたが、それは人道的世俗的な方法で再定義されています。女性が司祭職あるいは牧師に任命されることの適正を理解し正当化する概念は、男女の自由と平等で、この二つをどのように理解するかです。
フランス革命のスローガンである「自由、平等、友愛」の概念は、ヒューマニズムキリスト教の基盤とも言える、ヨーロッパ文化の流れを指し示すものとなりました。WEHにとって、「自由と平等」はキリストが「律法と預言者全体」を要約するものとして引用した、二つの基本的なキリスト教の戒律に対応するものです。「友愛」は、キリストの第二の戒め「自分自身のように汝の隣人を愛せよ」に触発された、単なる希望的観測に過ぎないと示唆されています。
啓蒙主義による「自由」の意味の再解釈はエピクロス主義者に、「平等」はストア学派にまでさかのぼることができます。意義深いことには、聖パウロはアレオパゴスでこれら両方の哲学派の信奉者と対決しました。8)その後の歴史が示すように、聖パウロは最終的に議論に勝ち、ギリシャ・ローマ文明はキリスト教になりました。女性の司祭職への叙階(聖職者に任ずる)への正誤を理解するには、最終的には「自由」と「平等」が何を意味し、どのように定義するかにかかっています。
8)使徒行伝17:16-32
★★★★
平等
キリスト教の「平等」の理解は、絶対(神)の原則に合致するもので、被造物である男性と女性は、各性別に与えられた役割において同等の価値(有意性、重要性、地位)を持っています。神はその目的を成就するために、異なった特性を持つ、別々の性(男と女)として創造されました。人間は神の子供として、同等の価値を持つものですが、神が意図されたのは、人としての特性、重要性、価値の平等性であって、地位や身分に関わるものではありません。さらに知らなければならないことは、全ての人間は、罪に貶められた子孫として(アダムとイブが神に反逆して以来の原罪をさす)性別に関係なく堕落していることです。ある種の罪は性質や性別に特化されやすいと言われますが、罪に階層はありません。
このように、キリスト教を基盤とする男性と女性の見方は、基本的に平等ですが、互いの役割、資質、そして神との関係、お互いとの関係は均一ではありません。代数的に表現すると、男性と女性の平等というキリスト教の概念は、「a」+「b」=「a」+「b」と書くことができます。問題は、ヒューマニストが男女間の平等という概念を受け入れながら、「平等」が何を意味するのかを再定義してしまったことから派生しました。
男女間の平等についての世俗的なヒューマニストの理解は、平等な価値ではなく、「本質的な同一性」と呼ばれるようなものです。肉体的なものであれ、精神的なものであれ、男性と対局にある女性を認識したり区別したりするのは、付随的なものとなります。男性と女性がそれぞれ固有の特徴を持っていると認識することは、お互いの性を尊重する、文化的な理由で意図的に育まれたものと考えらます。しかし、現在のいわゆるリベラルな社会では、性転換すら可能となっています。
もしそのように信じられるなら、男女間に本質的な違いなど無いのであって、お互いの役割を逆転できない理由もありません。そのため現代社会は、女の子が男の子や男性と同じように機能し、男の子や男性が行うことを行うように教育することに、多大な投資を行ってきました。しかし、男の子や男性が、女の子や女性として機能するための投資や宣伝に、重圧はそれほどかかりません。この両性同一の原則を正当化するため、夫には家族の母親として機能するように圧力がかかっています。その根底には、男性であろうと女性であろうと、最終的にはそれぞれの人生に何を選び、何をしたいかには関係しないということです。代数的に言うと、a + b = 2a、なぜなら「b」は実際には「a」と同じだからです。
★★★★
自由:
平等の概念と同様に、自由は、もともとエデンの園の記述にまでさかのぼることができる概念です。したがって、ストア派がこの主題「自由」について主張するより、はるかに古い歴史を持っています。創世記の最初の11章に記録された古代をどのように理解しようとも、それは人間の創造そのものにまでさかのぼる、聖書を土台としたうえでの概念であり、ヒューマニストが言うように、独立した思考存在としての人間の出現にまでさかのぼる理念です。再び、問題が生じるのは、いわゆる「啓蒙主義」において、神と絶対原理を無視したヒューマニストが、「自由」とは何かを再定義しなければならなかったからです。キリスト教における「自由」の理解は、神の律法の範囲内で、人間は自由を獲得するということです。
兄弟たちよ、あなたがたは自由の身に召されたのである。ただ、肉体に自由を用いるのではなく、愛によって互いに仕え合いなさい。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、優しさ、善良さ、信仰、柔和、節制です。 [ガラテア人への信徒への手紙。 5:13 ff.]
一方、ヒューマニズムの世界では、自由を「好きなことをする自由」と定義しましたが、これは実際には自由ではなく「気まぐれ」です。読者は1960年代半ばの前衛ミュージカル「ヘアー」を記憶されているでしょうか。このミュージカルのドラマチックなハイライトは、カップルのヒロインがパートナーに黄色いシャツを渡したときでした。彼らはブルジョア志向で、結婚は自由を奪うものとして避けていました。パートナーは、即座にそのシャツを引き裂いて紙くずかごに入れました。
取り乱した彼女は、「恋人が慎重に選んだプレゼントになぜそんなことをしたのか」と尋ねると彼は「黄色が好きじゃない!」と答えました。
ヒューマニストの言う「平等」の概念と同様に、ヒューマニストの唱える「自由」の概念からすれば、
自分が望むことを行い、平等にその役割を演じることができるならば、女性が司祭であることに反対する論拠はありません。問題点として重要なのは、それは既に現実となっており、フィクションではないことです。あるケースでは、それは男らしい役割を果たしている人間の姿です。別な見方をすれば、女性が礼拝儀式を行う男性の姿として機能しています。そうであるということは、女性司祭(Woman
Priest)と司祭の女性形(Priestess)との間の、言葉による区別がなされる原因となっています。要するに女性司祭の服装は、男性の祭服とまったく同じに保たれています。そうしないと、女性司祭は男性司祭の職務とは何か違うという考えが生まれます。女性のための服装が、人生の他の場所と同じように、彼女たちのwomanhood_を反映するべきであることは論理的です。水が常に独自の水位を見つけるように、女性らしさもやがて司祭の役割の機能に現れ、「女性司祭」という用語を時代錯誤的なものにし、女性「司祭」Priestessという用語を職務のより正確な説明としています。
次回は「批判理論」へと進みます。
なぜ女性牧師は認められないのか