この会はクリスチャンもノン・クリスチャンも共に学べるように2006年に設立された会です

コスビー牧師論文CONCEPT


WHY NO WOMEN PRIESTS

何故女性は聖職者(司祭、牧師)として認められないのか

アイルランド聖公会(伝統儀式堅持)

アイバン・コスビー牧師 


II. 私たちがどのようにして今いる場所にたどり着いたか


3. フランクフルト学派の「批判理論」

「フランクフルト学派の批判理論」として、一般に知られている、この哲学のジャンルは、ヘーゲルの相対主義の哲学的概念と同様に、現代の世俗的なヒューマニスト社会が保持し続けている価値観に直接関係しています。 当初、批判的理論は、マルクス・レーニン主義に挫折させられた者たちの運動として始まったものです。1923年のドイツ一揆(クーデター)の失敗と、ロシアのソビエト革命を除けば、カール・マルクスとエンゲルスが予言した、資本主義世界の崩壊は実現しませんでした。フランクフルト学派から発せられた「批判的理論」は、なぜそうなったのかを理解しようとする試みであり、「資本主義世界」と、その堅固に定着した体制の一つである「キリスト教会」の打倒をもたらすために、何をする必要があるかを意図する試みでした。この運動の支持者たちは、西洋文明の現状を維持した制度、理想、支配的な原則について批判的な調査を始めました。それは、西洋の資本主義制度と、確立された価値観の正当性に疑問を投げかけることによって、資本主義西洋の構造基盤を弱体化させる試みでした。
9)

この運動は、フランクフルト大学のカール・グラインベルク(1861-1940)による、社会調査研究所の設立から始まりました。彼はマルクス主義の法律と歴史の哲学者でした。また、この運動で重要な役割を果たしたのは、権威(独裁)主義に興味を持っていた、マックス・ホルクハイマー(1895-1973)です。彼が懸念していたのは、軍国主義と経済勢力が大衆社会に混乱を引き起こす基となりかねない能力と不安でした。

これが彼の批判的理論の発展につながりました
10)。この運動の先駆者として他には、近代社会に対する批判がヨーロッパの新左翼に影響を与えることになった、セオドア・アドモが含まれています。他の著名なメンバーは、エリック・フロム、ヘルベルト・マルクーゼ、ジークムント・フロイトなどでした。彼らは、「ヒューマニズム自体が宗教の学派」であることを認識しなかったため、フロイトは、宗教、特に「キリスト教」を否定していました。

これらの著書は、第二次世界大戦後の時代に、ほとんどの西洋の大学のシラバス(教科科目)で必読の書となり、大学卒の全世代が、教育、メディア、広報、政治などの影響力のある分野を求めて移動する現象を生み出しました。その結果西洋社会全体では、自らを、進歩的で、穏やかな社会主義者で、伝統や体制に批判的であると見なす、疑似知識人の専門家階級が発展してきました。そのような人々は、キリスト教が神話ではないにしても、多かれ少なかれ、無縁のものであるという理由から、軽視する傾向がありました。

カール・マルクスが最初に言った「人民のアヘン」というフレーズは、特にキリスト教を否定する発言として、20世紀を通じてよく引用されました。キリスト教は、フィクションとして片付けられないにしても、何らかの形の理神論(自然神論)または心理的松葉杖としてのみ考えられ、それがアニミズム(自然崇拝)の表現にまで退化しました。一方で、生ける地球のギリシャの母なる女神「ガイア」という言葉が、AVANT GARADE(革新的)なものになりました。ソビエト連邦の崩壊と、東ヨーロッパとバルト海、その衛星国の解放とともに、この類の、半知的自由主義的で疑似社会主義的な政治階級は、バーナード・ショーがかつて「忍び寄る社会主義」
11)と呼んだものCを突然払落し、代わりに政治においては自由民主主義的になったのです。



リベラルな啓蒙社会は、その宗教においてあからさまに無神論者が主体となり、特に深く根付いたキリスト教の価値観を弱体化へと向かわせました。当然のことながら、ファミリー(家族)という概念は、否定的な批判の脚光を浴びることになりました。ヒューマニスト宗教の二つの命令(上記96ページと97ページ参照)に忠実ではあったが、家族の概念は、家族よりも個人に優位性が与えられたときに決定的に損なわれました。キリスト教は、他の伝統的な社会や、確立された「宗教」と同様に、歴史的に家族を社会の基本単位として支持し、内部の、階層的でありながら親密な構造を持っていました。これは、フランス革命によって、最初に解き放たれた価値観に従って、個人が社会の基本単位であることに取って代わられました。社会的流動性の向上など、他の要因もその役割を果たしています。

確かに、クリスチャン家族の一人一人が神と独自の関係を持っていますが、そのためには彼らの父と母を敬うことも必要です(十戒の5番目)。家族が社会の基本単位であるところでは、各個人は全体の端数です。税法は、かつては家族の単位概念を支持し、保護する方向に傾いていました。しかし20世紀後半以降、この傾向は徐々に取り除かれ、すべての個人を平等に扱うようになりました。例えば、軍隊の隊員と会社の従業員には、結婚手当が支払われる時代がありましたが、これは、差がなかったとき、独身者の生活の質は、給与が同じであれば既婚男性の生活の質よりも大幅に高くなるという事実の認識からでした。また、既婚男性は、独身男性には無い社会的責任を負っていることの認識からでもありました。

真実を批判する類のこの理論は、おそらく、その根底にある説得力は、男と女が互いに関係を持つ社会で、何を期待し何が必要とされるかという、それぞれの性別に指定された、伝統的な役割を浸食する、重大な責任を持つ試みと言えます。それは、場合によっては、お互いに都合の良い浄化作用ともなりますが、ときに強制された方法でなされることがあり、また他方では、健全性と有益な方法をほのめかすことによって行われることもあります。一つを例にとると、「家父長制」という言葉は、完全に不正で時代錯誤的な表現であり、悪と言えるほど不条理であると認識されています。 一方、「母権制」は健全で目指すべきものであり、進歩的で将来の良好な秩序の特徴であり、正義である、とさえ言われています。


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9) このテーマに関する簡潔で明快な入門講義については、以下を参照してください:
L'abri Fellowship series of Friday Lectures, Reflections on Critical Theory (Part 1: 17th July 2021, and Part 2:  24th July 2021.)

10) Eclipse, Eclipse, Reason (1947)
11)  Schwartz, Pedro.「ジョージ・バーナード・ショーと忍び寄る社会主義」



4. 宗教は表面的ではなく、基礎的なものである
女性が聖職者に任命されることの重大な意義は、それが扇動されたからではなく、西洋の世俗文明の基本原則として相対主義の原則を反映し、信憑性を与えたことに由来します。なぜでしょうか? 現代の世俗的社会は、宗教は表層的な問題であるから、と私たちに信じ込ませるでしょう。それは個人的なものであり、公務や国家政策の決定には関与しない、国家は無宗教(irreligious)だからです。勿論これは明らかに真実ではなく、以下で「宗教とは何か」という質問によって説明します。

宗教は、生命の根本的な問題、例えば「死後の世界はあるのか」、に対する答えを提供する哲学的構築物またはパラダイム(認識のしかた)です。神は存在するのか、生命はどのように始まったのか、私たちはどう生きるべきか等、宗教は、これらの質問に対して信頼できる答えを提供します。これらの答えに基づいて、道徳的秩序が進化し、それが、人々が何を正しく理解し、何が間違っているのかを深いレベルで決定します。その道徳的基盤とそれを支える信念が、私たちが文明と理解するものに進化し、その基盤となっています。言い換えれば、宗教は基礎的なものであり、ヒューマニストが私たちに信じ込ませようとしている論理とは全く逆に、 極めて簡単に証明されるものです。



アリステア・キャンベルがウェストミンスターで政治について語ったとき、「我々は神を行なわない」と言った観察がいかに容易であるかを示しています。
12)さらに重要なことは、私たちの目的にとって、ヒューマニズム自体がキリスト教であるのと同じくらい宗教に近いものであるということです。二つの宗教の本質的な違いは、それぞれが道徳的公正さと見なすものを決めていますが、キリスト教は神が存在すると信じており、死後の永遠の命が現実であると信じていることであり。ヒューマニスト宗教(WEH)は、神は存在せず、死後の永遠の命など存在しないとしています。そのためキリスト教を否定することになります。そうであるためには、ヒューマニストはキリストの復活はフィクションであると信じなければなりません。

ところがWEHはまだ、それを実証または証明することができていません。西洋世界が啓蒙主義のヒューマニスト宗教をますます賛同するにつれて、政府はますますヒューマニスト宗教に賛同するメンバーで満たされ、かつてキリスト教に触発された土地や関係機関は、着実にWEH宗教の原則と道徳に適合する法律に置き換えられています。この宗教は現在、キリスト教を否定しているだけでなく、サルマン ラシュディ
13)やチャーリー・ヘプド14)の事件が明らかにしたように、イスラム教を恐れています。先に述べたように、リベラルなキリスト教は、世俗的な世界の価値観(ヒューマニズム)と関連性を持つことですが、すでに示したように、関連性を保とうとする試みは、実際にはヒューマニズムの原則を採用し、それらの価値観をキリスト教と一致させる知的な方法を見つけようとすることにつながります。それは、福音の完全性を損なうことなしには成し遂げられません。もしそうしようとするなら、その代償は真実と現実の両方の境界を越えることになります。WEHの加入者が自らの選んだ道を進むにつれ、時間がたつにつれて、彼らがフィクションと非現実の世界に生きていることが明白になりました。

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12) 当時のトニー・ブレア首相の報道官で、コミュニケーション・戦略局長だったアリステア・キャンベルは、2014年4月22日のBBCニュース番組でコメントした。
13) サー・アフメド・サルマン・ラシュディ、1947年生まれ、リベラルなイスラム教徒の親子関係を持つ。『悪魔の詩』(1988年)では、ファトワーが彼に対して宣言されました。彼は自分自身を「強硬な無神論者」と評しています。 (Bill Moyers, on Faith & Religion — Bill Moyers & Salman, Rushdie, PBS, 2006).ナイト叙勲(2007年)、コンパニオン・オブ・オナー勲章(2022年)
14) 「Charlie Hepdo」は、1970年に設立された世俗的な風刺出版物であり、その風刺は、特に宗教全般、特にローマカトリック、イスラム教、ユダヤ教に対して向けられています。2015年、イスラム主義者がパリの出版社の敷地を攻撃し、出版社のディレクターと他の12人を殺害した



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2025年 2月