何故女性は聖職者(司祭、牧師)として認められないのか
アイルランド聖公会(伝統儀式堅持)
アイバン・コスビー牧師
III キリスト教の神と人間が逆転した。
2. 道を間違えた西欧ヒューマニスト
(異端が蔓延る)
これまでの文脈において、私たちは、女性が司祭職、牧師に任命されることには、暗黙のうち何が含まれているのかを理解しなければなりません。 聖職者25)/長老職は本質的に指導的地位にある人物です。司祭あるいは牧師は、彼の会衆と教区の、より広い意味の家族に対して、責任を担っています。したがって、小教区に責任者としての女性の司祭・牧師がおかれ、教区を統括しているとするなら、それ事体が明らかに聖書に違反しているのです26)。
例えてその女性聖職者が、結婚しているとすれば、彼女自身の肉親の家族や夫の、どちらが権威者(責任者)かという疑問が湧いてきます。さらにまた、彼らのうちの男性が、その教区の事実上の長ではないのか、という疑問を提起します。これに類する質問は、デニス・サッチャー氏やフィリップ王子に対しても提言されました。尋ねられたり、ほのめかされたりしたであろうし、ビクトリア女王の夫であるアルバート王子についても、その事実は公然と知られていました27)。これらは聖書の原則に基づいて、教会ほど、完璧な補完性が求められ、小教区、家族、そしてより広い教会全体に関係する問題となっていました。
すべての女性社会には、常に女性の首長がいます。修道院の母長についていえば、28)この問題は、男女が関与する社会でのみ発生します。ここで指摘されるのは、現実の世界では、この原則が西洋のヒューマニスト社会で広く普及していることです。原則として断固として拒否されているため、この現実は論争の要となっています。
この論文は、責任ある男性のヘッドシップとしての役割が、キリスト教の必須条件であるだけでなく、実際の世界がどのようになっていくか、現実をしっかり見極めることであると主張します。その補完性が見いだせないとき、キリスト教会だけでなく、その宗教や文化が何であれ、社会全体の完全性を損ないます。それが社会的緊張を生み出し、注意を怠れば、いじめ、結婚生活の破綻、不登校児、自己中心で無責任な男などの、非社会的行動に現れます。これらはすべて、最初の段階で誠実な家族の安全性と社会全体の安定を蝕んでしまうのです。
より広い教区の視野から見るなら、男性のヘッドシップのオーバーライド(指導性を蹂躙すること)は、キリスト教のそのものにチャレンジするだけでなく、その中核である、人間の結婚についても、骨抜きにするような、大きな問題となっています。
キリスト教が示す結婚の基本原則は、いかに有能な女性司祭が責任を担っている教区であっても、象徴的なロールモデルである女性が担う(責任をもって応答できる)対象ではなく、責任を負う対象を表す(従順を誓う)ものであると認められるからです。
聖書、(マルタとマリア)に描かれている女性らしさの象徴は、現代では、責任を負うべき所在として妥当な反論を受けたとされています。それはマルタの行動に正しさを与えるものであり、キリストの教えと矛盾するものです。
もし教会が、ある場面ではキリストに反論するのが適切であると考えるなら、キリストの教えが現代の世俗的な価値観と調和しないとき、教会は他のどのような分野で一致(調和)を図るのかいう疑問を投げかけます。さらに重要なことに、女性の聖職者が暗黙のうちに支持され、役割の逆転が普通とされている今日、それは論理的にハイエラルキー(聖職者の制度、政治)の連鎖を追っているのです。
花嫁である教会は、キリストに応答して責任を果たすのではなく、今やキリストのために責任を持つということになります。究極的なレベルで人間に責任を持たれている神は、人間の側からも、神に反論し責任を問うことができるという。これでは明らかに、「人間は、神の発明者である」ことになります。これがまさにWEH(ウエスタンヒューマニズム)宗教の基本的な立場です。
この理由からも、女性は、女性に生れついているという理由だけで、クリスチャンの聖職者になることはできません。ユダヤ教・キリスト教の聖書全体の伝統において、女性の祭司、が一度も存在しなかったのは、神に対する違反行為であるという正当な理由によるものでした。
古代、神事に関わる儀式は、通常は、豊穣崇拝に支えられた宗教として用意された場所でおこなわれました。西ヨーロッパとアメリカの文化、そしてそれを模倣する多くの人々は、乱交、同棲、堕胎(つまり嬰児殺しの変種)に取り憑かれており、その多くが、上で説明したように、男女の役割の混乱と逆転によって刺激され行われます。これらは、古代の豊饒宗教の特徴であり、キリスト教時代の初期古代ローマの世界を表しています。この状況で、聖職者の女性を認識する余地がないのは、当然のことです。
イスラエルの子孫たちは、他の宗教を受け入れるために重い代償を払いました。ましてや、モロク崇拝のような豊穣のカルトは言うまでもなく、そこに深く埋め込まれている、夫婦以外の性行為の常習化、そしてより不吉なことに、女性と子供たちの(宗教的生贄)による犠牲です。さほど奇妙なことに、むしろ性的な乱交の大部分が当たり前になっている今日の社会で、「Me Too」のような(女性の性被害)抗議運動を見けることは論理的なのでしょうか? そのような運動は、事実上、無責任な男性の乱交の祭壇での女性の犠牲に抗議しているのであり、そこでは男性は、自由についてのヒューマニストの理解において、男性の自由を行使して、自分が選んだことをしていたのです。
以上のことから理解できることは、女性を聖職者にするという決定は、女性を深く侮辱するだけでなく、女性としての資質を男性のそれはよりも、価値が低いものとして扱うだけでなく、神学的には、神と人間の関係を逆転させ、人間を神の発明者とすることにさえなりかねません。したがって、人間中心主義であるヒューマニズム思考は、第一級の異端であると理解することができます。
この論理に従えば、女性の聖職者任命を二次的な問題であるとすることは、勿論間違っています。
次のセクションで示すように、そのような見解に固執することの結果は深刻になります。知らず知らずのうちに。女性牧師、祭司を招聘することを選んだ教会は、知らず知らずのうちに、上記の文化秩序に組み込まれます。出来事の論理に従うことに消極的で保守的に見えるかもしれませんが、本文は、本質的な理論に基づいて続行してまいります。
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25) 英語で「長老」を意味するギリシャ語の長老(Πρεβύτερς)は、「司祭」に変化しました。それはまだこの意味を保持しています、すなわち、イングランド国教会では「長老」であり、この用語は英国国教会でまだ使用されています。ローマ・カトリック教会は、英語の「Priest」という言葉を採用しており、それにІερέας(文字通り「ヒエラルキー」という意味があるが、「執り成す者」(Мεσολβητής)の感覚を持つ)という感覚があるとしているが、これは宗教改革では強く拒絶された概念であり、なぜなら、聖書に関する限り、神と人間との間にはただ一人の仲介者/仲介者、すなわちイエス・キリストしか存在しないからである
26) 1コリント 11:3 しかし、すべての人のかしらはキリストであるということを、わたしはあなたに知ってもらいたい。そして、女性の頭は男性です。そして、キリストの頭は神です。
27) 枢密院書記官チャールズ・グレヴィルは、彼の日記に「彼はあらゆる意図と目的において王である」と書いている(グレヴィルの日記 — vol.
17) 5, p. 257) Fulford, 1949, p. 117 に引用されている
28) 使徒行伝14:15-16、40参照 リディアは、高価な輸入品であるパープルの売り手として、彼女自身の家庭と国際的なビジネスを持っていました。
次回は、(どうする異端、「罪に引き渡された国家」へと続きます)
なぜ女性牧師は認められないのか
2.道を間違えた西欧ヒュマニズム