何故女性は聖職者(司祭、牧師)として認められないのか
アイルランド聖公会(伝統儀式堅持)
アイバン・コスビー牧師
Ⅳ. 罪に引き渡された国家
1. ポイントを変える
女性聖職者の任命で重要視されるのは、それが扇動された活動に始まったのではなく、西欧の世俗文明が、相対主義を基本的な原則として反映し、それに信憑性を与えたからでした。女性が司祭や牧師として任命されることは、西欧の世俗的な発展過程の中では、小さく取るに足らない出来事であったように見えるかもしれませんが、しかしそれは、彼らを任命する教会の活動が、社会にとって意義のある存在であり続けることの試みでした。これほど真実の追求からかけ離れているものはありません。
前に述べたように、それは世俗的なヒューマニスティック(人間中心主義)な考え方から成長し、その価値観は古典的なギリシャ哲学に由来していますが、聖書にその記述は無いことを強調しておきます。鉄道に例えるなら、ポイントを切り替える問題です。ポイントを変えるという行為自体は小さな動きですが、その結果、列車は切り替えられた別の方向に向かっており、本道と離れて遠ざかっています。そして本道はポイントの分岐点から不要なものとされました。変化は始まったばかりに見えますが、さらに過激化していくだろうと理解することが重要です。(聖書の正道に違反する)この現象は、到底無視できない状況となっています。
現代社会は、リベラル派と称する教会も共に従え、現実と公正さの錨を提供してきたキリスト教の聖書的な世界秩序との結びつきを、徐々に断ち切っています。それどころか、教会と社会は新しい価値観を探求し、調和と同一を図り、WEH(人間中心主義)はそれを容認しています。
聖書の(神のみ言葉を第一とする)クリスチャンは、このようなキリスト教の秩序から逸脱する現実に注意を払い、そこから生じる負の結果を重く受け止め、世に指摘する責任があると思うのです。
クリスチャンとして、現代西欧文明に彩られた新しい世界を見渡すとき、そこに見るのは「人間の、罪に引き渡された世界」を象徴している、という、結論を引き出さずにはいられません。それは神の目から見て正しいと見なされることが、現代の西欧化された社会で受け入れられる情報に基づいた見解では、間違っていると見なされます。
それどころか、神が間違っていると断言されることを、現代の世俗的な人間によっては、正しいと見なされています。(例えば人間の知能を過大評価するような)特定の前提を容認することで、必然的または論理的に進展する出来事がありますが、どのような過程で、この論理が成立し採用されたかに注意を払うことが最重要の課題となります。
その間に論理の力を考えると、これらの道徳的価値の変貌が、次に必然的に向かうのは何処なのか、探究し例証すべく、次の項目に移ります。
2.性的堕落:
i. LGBT+の認識は公正なものとされた
聖書には非常に明確に、LGBT+それ自体が本質的に間違っている29)と述べられています。
しかし現代、ヘーゲルの「テーゼ/アンチテーゼ/統合」の原則に支えられた社会にとっては、LGBT+の慣行は完全に「正常」であると理解しています。この論文の目的は、同性愛のさまざまな症状についてコメントしたり、議論したりすることではありません。女性聖職者の任命と同性愛の真偽、それらの信念との関連性と必然性に、関心を持つことにあります。
(神の)絶対原理を無視した相対主義は、人道主義的解釈のうえに想定される、「自由」と「平等」を、正しさの根拠にしています。(上記、pp 96,97を参照)。これらの解釈によると、女性が聖職者になることを妨げる論拠は成り立ちません。ヘーゲルのテーゼとアンチテーゼの原理が組み合わされ統合を形成する場合、テーゼとアンチテーゼの関係は、単に相対的なものに過ぎないからです。
一方の極端に男性から他方の極端に女性まで広がる性的スペクトルを考えると、その間の相対的な領域は、男性と女性のセクシュアリティの様々な程度を表しており、そのすべてが同等の価値と正しさを持っています。スペクトルの一方の端にある男性性ともう一方の端にある女性性を、本質的に同じ秩序にあるものとして支持するのであれば、それらが組み合わさって、総合を形成している以上、セクシュアリティのいかなる組み合わせも、間違いや退行と指定されうるかどうかを問うことは、非論理的となります。
当初この関心は、同性愛とレズビアンに限定されていました。しかし、近年では、男性と女性のスペクトルは話のタネの顕微鏡にさらされており、「LGBT+」の一般的な旗の下に、トランスジェンダー、シスジェンダーなど、無数の性的状態の発見または出現に繋がっています。
宗教界でも、女性の叙階(牧師招聘)が正しく、同性愛者、レズビアン、またはLGBT+の変種の牧師が間違っていると主張することは非論理的です。一般的に、性的な状態がどのように考えられてたにしても、それが正しいかどうかと認定することは最早不可能です。従って、この10年から20年の間に、知らず知らずのうちに、世俗的/ヒューマニスト的な価値観の秩序に賛同した教会が女性の聖職者を承認することから始まり、同性愛者、レズビアン、女装者を、司祭や牧師とすることへと進展したことも、事態の成り行きと見るべきでしょう。30)。
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29) ローマ人への手紙I;例えば、18-32。「同性愛者」と「異性愛者」という言葉は、1869年に出版されたパンフレットでカール・マリア・ケルトブレニーによって最初に造られたため、聖書にはこれらの言葉自体についての言及はありません。
30) 中部聖公会の司教フランシス・モリ牧師は、神権に助祭を任命したが、彼のトヨタ教区の学長の叙階の命令を確認する問題、学長が彼が性別を男性から女性に変更したと宣言したとき。
ii. 獣姦
「進歩の行進」と呼ばれるヘーゲルの公式について言えば、すべての統合は新しいテーゼとなり、それに対応するアンチテーゼとなる(相対する)、一見終わりのない進歩であることを、知覚する必要があります。この公式による人間としてのアンチテーゼとは何かという疑問を投げかけます。この段階ではAnimal(動物)とすることが示唆されます。
現在獣姦は、20世紀半ばまでの同性愛が不道徳であったのと同じようタブーとされてきました。しかし現代のヒューマニスト社会が、獣姦を容認する方向に進んでいる兆候を見出し、私たちがそれを黙認することができるかどうかという疑問を投げかけています。
人工授精は、動物が人間ではないという明確な認識があるため、そのような慣行の道徳性について真剣な議論がなくても、畜産の世界では長年にわたり実践されてきました。これらの概念の間には質的な違いがあります。最近では、私たちは、女性が「何らかの適切な処置」として、匿名のドナーによって妊娠させられるという慣行に慣れてきました。そのような慣習を容認するために、結果として生じる誕生は「処女降誕」と呼ばれ、これらの母親を思慮分別もなく聖母マリアになぞらえました。 ここでの目的は、この状況の正当性などではなく、そのような精液の提供が匿名であることが適切であると、一般的に受け入れられていることに注目すべきです。さらに深刻なことに、これらの精液提供者は、父親であると主張する権利も、父親の役割と義務を引き受ける権利も持っていないと見なされています。言い換えれば、匿名の精液提供の結果としての子供の誕生は、より現実的で正確に言えば「犬の誕生」と同じです。雌犬のように、母親は自分の子孫を成熟させる責任があります。肉体的および実際の父親/ドナーは、犬の世界では雄犬が持っているのと同じように、父親になった子供の養育に対して責任や役割を持っていません。前述の観察は、現時点では、当然のことながら無感覚な発想であると考えることができますが、この「論理」は議論の余地がありません。人間と動物が質的に異なる生きものであると見なす限り、それは無神経であり続けます
一方で、本来の質的な区別が崩壊しているという証拠があげられます。動物に“人権”を認める運動が根強く拡大しているのです。多くの「自然プログラム」は、意図的であろうと無かろうと、人間と動物の類似性に注意を向けさせます。それは高度に発達した人間のような性格、社会秩序、言語、道具の考案と使用などに於いてかもしれません。また、野生動物はおろか農作業の経験がほとんど無い、多くの都会の人々は、動物と人間は、本質的に同じであるという概念に陥りがちです。違いは単に相対的なものといった具合です。
それとは対照的に注目に値するのは、田舎の人間は数え切れない程の世紀にわたり、動物と生活し働いてきたことです。その過程で、牧畜業者はしばしば動物と個人的な関係を築いてきました。どんなに親密な関係であっても、彼らが扱っている生き物が動物以外の何物かであるという混乱や認識は決してありません。この二つの間には質的な違いがあり、それが意味するすべての結果があります。
しかし, 人間は動物と質的に異なるのではなく、相対的に異なるだけであると信じられ始めると、人間の権利と動物の権利の区別が曖昧になり、動物に人権を認めるケースが大幅に強化されます。これが達成されると、獣姦に反対することは非論理的になります。
絶対者である神の原理に基づいているキリスト教の聖書的世界観は、上記(ヒューマニズム理論)の進行にさらされることで真理を妨げられています。要点を説明するために、創世記1章の創造の順序を参照することにします。質的に異なる創造の秩序は、ヘブライ語のרק「バラ」)によって導入されますが、これは神によって創造されたものへの言及で、物質、動物、人間の創造は、質的には三つの全く異なる創造の系列で、神は先ず「物質」を創造しました。31)これに続いて「動物」32)、つまり物質と生命を構成する要素が創造されました。この後者のプラス要素こそが、「動物」を「物質」と質的に異なるものにしています。
そして創造の第三の質的順序が人間の創造です。33)神は「物質」と「動物」に加えて、「人間」を神のイメージに創造されました。(神の形という)特別なプラス要素を含んでいる生きものとして動物と区別されています。人間の世界は特に創造性と道徳に関して、物質、動物の「閉鎖的な秩序」とは対照的に、哲学的に「開かれた」と呼ばれるものです。それは善悪の違いが何であるかを知る能力、そして神のイメージの中にいること、その一部は、人間が「動物と物質」の両方である世界に対して管轄権を持っていることです。「バラ」の最終的な適用は、(男性)人間に加えて、(女性)人間の創造にあり、(男性)は「一般」を象徴し、(女性)は「特定」34)を象徴します。どちらも神のかたちに創造されましたが、その目的と義務において、互いに関係する性質が異なります。どちらも他者の適切な機能を補完し、神の見解と互いの関係において、同等の価値と重要性を持っています。
ここで指摘しておきたいのは、ヒューマニストの宗教は、創造主である真の神の存在を信じていないので、彼らは、人間、動物、物質の間に質的な区別があることを信じることが出来ません。人間が動物のように振る舞わないことや、生物と無生物を区別することを、論理的に正当化することが難しくなります。
DNAの発見に部分的に加わったフランシス・クリック(1916-2004)は、事実上、人間の組成を単なる「化学表現」であると理解していました35)。人間が創造において唯一無二であり、神のかたちに創造され、哲学的な「開かれた秩序」の中で機能する能力を持っているとする代わりに彼の思想は、それら人間の全存在は、ただの物質に過ぎないと単純化しています。クリックは「宗教」の中でも特にキリスト教を非難していましたが、彼はヒューマニズム自体が「宗教」であることには気付かなかったのです。
私たちが引用しているヒューマニズムの現在の秩序を考えると、たとえて言えば、現代社会が自分自身の(方向付けを)プログラムする段階までは、生かされているというのが妥当です、なぜなら、それが間違っていると信じる基盤となる哲学的秩序/宗教はもはや存在しないからです。
女性の司祭職、牧師への叙階のいわゆる正偽は、その人間主義的な世界観の現れにすぎません。それは、聖書を外れた考え方に起源と正当化を負っています。又それは、キリスト教的であると主張する(異端的な)世界観の現れです。それを同意する基本的な原点の見方は、「神は存在しない」というものです。そのため、女性聖職者の叙階は、キリスト教とは完全に矛盾するものであり、現代社会を反映しているのであって、全能の神の「絶対原則」をそれに従わせようとするものです。
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31) 創世記 I:6-19
32) 将軍:I:20-25。植物の生命の創造は、動物ではなく物質の側にあることに注意してください。つまり、植物は動物ではなく物質です。光合成は物質のプロセスであり、動物や人間の身体機能もそうです。 (創世記I:11、12)
33) 創世記 I:26
34) 創世記1:27
次回は、「男らしさ、女らしさ」
なぜ女性牧師は認められないのか