何故女性は聖職者(司祭、牧師)として認められないのか
アイルランド聖公会(伝統儀式堅持)
アイバン・コスビー牧師
III.キリスト教の神と人の関係が逆転した。
聖書の文明において、あるいは現代の世俗世界の文明においても、男性または男らしさ、女性または女性らしさという用語は図解的です。例えば、「女子供」という言葉は、社会で最も脆弱で保護を必要としている人々を指す言葉として未だに使われています15)。そこに「男」という言葉を含めると、そのフレーズは、全ての「人間」の意味に変わります。男と女の、どんな区別も否定される世の中で、男性はますます脆弱となり、もはや男は女と変わらず、「男」と特化する言葉自体が、時代錯誤ともなります。そうなると、聖書の中で最も弱い立場にある人々を指す言葉は、「未亡人父親のいない子どもたちでしょうか?」男性と女性の結婚は、神と人間との間に交わされた深い絆を反映し結ばれるものです。
1. 権限は階層的である
現実の世の中で、権威による支配の現象は自然にみられることですが、これはヒエラルキー「階層制度」であるという理由から、啓蒙されたヒューマニストの「平等主義」世界ではタブー視されています。しかし、権威の行使があるところには、階層がなければなりません。つまり、責任を問われる者と、責任を問う者です。これが「啓蒙された」世界の平等意識者たちには不承認であり、それは不条理で到底納得出来ない、または存在しえない、という主張のために、多大な努力を払っています。
実際、現実の社会では、どのような規模のものであっても、整然とした社会インフラ(基盤)が存在するためには、権威の階層がなければなりません。重要なのは、権威が存在するかどうかではなく、その権限がどのように処理されるかです。権威に服従したことがある人なら誰でも、キリストが教えるその主題(権威)について、正しい認識を持つべきであると思うでしょう16)。キリスト教の原則が支持されている場合、特に階層的秩序の中で、正しく取り扱われている権威に関して、非キリスト教徒がキリスト教を真剣に受け止める理由のひとつともなっています。
聖書的な見方からすれば、権威という概念は、暗黙的(絶対的信頼)であると同時に明示的な(腹蔵の無い)ものです。全能の神は被造物に対して責任を持っておられ、創造物は全能者である神に応答する義務があります。従って、神は人間に対して責任があり、人間は神に対して答えるのであって、その逆ではありません。キリストは、キリストの花嫁と言われる教会に責任を負っていますから、クリスチャンの結婚では、(キリストの代理である)夫は妻と家族に対して責任があり、妻と子供たちはその家の代表である夫または父の責任を守ります。最も基本的で原始的な異性愛者のレベルでは、女性の安全と幸せは、男の責任にかかっています。
その逆は無いのですが、これがWEH(西欧ヒューマニズム) では受け入れられません。現実の世界では、女性が自分自身の面倒がみられないことを、他人のせいにすることは出来ません。平等の人道主義的な理解が適用される世界では、彼女が自分自身の面倒を見ないのは女性自身の責任です。現実には、レイプと誘惑の間には大きな違いがありますが、もし男が、女を強姦したり、女から誘惑されたりしたら、どちらも男のせいです。関係の事情がどうあれ、男性は女性の安全に責任があります。もし男が自分を誘惑することを許すなら、それは自分を制御出来ない彼自身の責任です。WEHでは、男性は女性の安全について責任を負いません。
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15) c/f ヤコブ1:27.
16)例えば、ヨハネ13:4-17を参照してください
ある女性が男性との結婚を考えていて、その男性の権威を十分に尊重し、その下に身を置くことで、自分の幸福が向上すると信じることが出来ないのであれば、彼と結婚するべきではありません。無私無欲で自分を捧げるには、信頼が必要だからです。自分自身を、何らかの権威の下に置こうとする意志は、それによって栄誉を与えられることが期待されており、その権威に取って代わるのではなく、彼の権威に参加する配偶者として彼の側に座るように招待されます。
なぜなら、男性の権威の下に身を置くことを約束されているのは女性であり、結婚においては、男性が女性の担い手を求めるのが伝統であり、その逆でないことを表しています。そして、彼自身の権威の下に身を置くために、率先して行動しているのは彼女であり、自分自身を結婚に託したいかどうか問われなければなりません。男性が権威を扱う方法は、女性が尊重し、価値を置くものでなければなりません。そして
その権威によって、彼女は強められ、育てられ、安心できるようになると信じることができるのです
繰り返しますが、結婚による共同生活は、その尊厳を保っていない場合、女性はその男性と結婚すべきではありません。同様に、男性であれ女性であれ、教会の家族に属している者同士であれば、全人類が究極的には人間と神との関係を象徴しているということになります。言い換えれば、人は神との関係において、「深い絆で結ばれ、応答する」という意味で女性的であると言えます。17)この密接な関係のロールモデルは、女性です
「女性らしさ」を問う最も素朴なものとして、他人のために自分を捧げる姿勢があります。結婚は、人間関係の最も基本的なものですが、女性の愛の現れは、夫と子供たちに自分を無私無欲に捧げることです。夫婦のどちらの側にも、姦淫の余地も無いはずです。しかし卑劣にも、前述の夫の側の姦淫は、当然のように収まることなく、特に注視されていました。以来、英国法が最初に離婚を許可したとき、男性が妻を離婚することは許可されませんでした。女性だけが離婚を訴えることができたのです。
女性であることは、妻としてまた母として、人間と神との関係を証言する全人類の象徴的なロールモデルです。母親は、子供と臍帯の関係を持っていますが、それは決して元に戻すことができず、父親にはないものです。したがって、男性は決して自分の子供たちの母親になることはできません。最も原始的なところでは、母親の関係は養育することです。子供は、生まれるとすぐに母親に引き寄せられ、母親がそれを統括する直接の権威者となります。秩序あるクリスチャンの家庭では、子供が家族の中で視野を広げるにつれて、母親を超えた権威、つまり少し離れたところに父親の権威があることに気づくようになります。
子供は、父親が家族全員を代表して家族の祈りをするのを見て、この真理を理解します。やがて、大人として成熟する重要な局面となるのは、子供が思慮分別の持てる年齢に達して、神との直接的な関係を結ぶ選択をするときです。子供が成人期(成年)に達するその時までは、神との関係は、以下で説明するように、神から委託された親としての責任を,減免ことは出来ません。子供は思春期をむかえ、やがて男性または女性として成熟します。
子供は家族を超え、現実の世界に向かう時が来ます。その自然な過渡期は、父親が母親から、主要な責任を引き継ぐ時でもあります。母性によって養育された、基本的な育児の資質に匹敵する、父親の同等の役割は、「保護と供給」です。その時期を迎えた母親は、「そのことはお父さんに話さなくてはいけません。」と子供に言える立場にあることを認識し、それが実質的な意味を持つことが大切です。そこには明らかに、普段は口にしない、微妙な権威の階層が存在し、それが社会の縮図である家族を、適切に機能する世界へと結び付けます。
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17) 前述したことは、神との関係において、人間が女々しいという意味ではない。 しかし、その男らしさにおいて、彼はより高い権威に従うべきものなのである。同様に
女々しい性格である必要はない。
このように、家族の構造の中で適切に機能している「権限」がある場合、権限を持つ者の信頼に足りる、頼みとなる上位の権限に信頼を置くことになります。これをキリスト教学的に説明すると:人間の堕落性と権威を乱用する能力のために、(罪によって神から切り離された状態をさす)下位にあるものは常に、究極の権威である神の代弁者として答え得る、上位の権威に頼らなければなりません。したがって、直近の上位の権限者の義務は、それをどのように行使したか、評価し是正するか或はそれを確認することです。
このようにして、ヒエラルキー段階の中では、さらに上位の権威を頼みとして、解決が図られる仕組みとなっています。最終的には、下層から最高レベルの権威、例えば大学の学長、政府の君主や学長に直接アクセスできる規定が必要となります。(*共和国でさえもその国の長が必要とされています)。この原則は、君主制において明確に理解され、規定され、実証されています。地位に関係なく、すべての人が等しく王の臣民として、国王と臣民との間には仲介者はいません。18)
この原則は、国王が彼の民を訪れ、聴聞会を行い、個人的に賞を授与するときに、群衆が国王とともに参加する集会で発揮されます。国家的に重要な出来事や、当時、ウエールズのダイアナ妃の死後に英国で起こった悲劇のように、時に国民が君主の立ち会いを求めるような状況が起こると、民主的な政府が優勢な立憲君主制(英国)では、この原則はさらに直接選挙に表わされます。
キリストはしばしば、神と人との関係に関連して、結婚に言及しています。英国国教会の礼拝の用いられる祈禱書では、結婚の本質とは何かについて、正しい論拠が強調されています。引用しましょう。
結婚は名誉ある財産であり、人間の無垢の時代に神によって制定され、キリストと彼の教会との間にある神秘的な結合を私たちに示しています...そして、家族や家庭の正当な秩序のために、子供たちが主の恐れと養育の中で育てられ、主の聖なる御名を賛美するように育てられるためである。19)
しかし私たちの現実は、ヒューマニズムが強調される世の中に生きています。それは権威を否定し、階層の概念を嫌悪し、誰に対しても責任を持つという考えを拒否しています。その結果、適切に機能していた家族が崩壊すると、権威ある環境を体験することなく、権威ある地位に就いている人々は、その権威を乱用する傾向が目立ってきます。
その人は、責任を持つ人々に仕えるのではなく、支配するために、提供された機会を利用することであり、それが正当な立場だと考えています。「主体」という用語は、暗黙のうちに、究極の頼みの綱である神の必須条件の原則があります。意味深いことに、それは共和主義者によって拒否された用語です
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18) オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・ヨーゼフ皇帝は、彼の仕事の最初の20分間を、彼と話すことを要求した彼の臣民の一人に謁見を与えるために予約しました。
19) 結婚の厳粛化のための序文、BCP 1662を参照 20)復活の際には、彼らは多くなく、結婚によって与えられることもなく、天の神の天使のようになるからである。[マタイ22:32]
なぜ女性牧師は認められないのか
III.キリスト教の神と人間が逆転した