この会はクリスチャンもノン・クリスチャンも共に学べるように2006年に設立された会です

コスビー牧師論文CONCEPT


WHY NO WOMEN PRIESTS

何故女性は聖職者(司祭、牧師)として認められないのか

アイルランド聖公会(伝統儀式堅持)

アイバン・コスビー牧師 


Ⅳ. 罪に引き渡された国家

iii. 男らしさ vs 女らしさ
通常「フェミニズム」と呼ばれているものは、女性を司祭職や牧師に任命することの是非を議論する、背後の原動力でもある訳ですが、実際には、これは提唱者の偽った名称の選択だと思われます。この現象を正しく説明するならば、これは「マスキュリニズム」であり、この運動の背後にある原動力は、女性も男性がすることを、同様に実行可能にすることにあるからです。

これまで、キリスト教の人生観に基づいた、普遍的で文化的な意見によれば、女性の資質の男性化は不適切であるだけでなく、女性がそれに屈服しなければならないことは品位を落とすものであると見なされてきました。女性が本来伝統的な男性の役割を担うということは、強い体力、攻撃性、頭脳明晰さ、組織の長、更にはスタイルや服装の男らしさ、汗っかきといった、典型的な男の特性に関連する資質や特徴を示すようになる傾向があるからです

これらがより良い結果を達成するために、女性の身体が男性化「マスキライズ」を必要とするスポーツの分野では、不条理ともいえる手段を必要とします。
これを実行可能とするには、女性は、通常必要とされる男の役割と連合して、同じように男の責任をも引き受ける事になるのです。これらは、女性解放のテーマとしても、理解されているからです。女性が男性の役割と働きを引き受けさえすれば、それが解放であると信じるように奨励されています。

それでは、女性を何から解放するかという疑問を投げかけますが、表層的な答えは、伝統的に女性的であると考えられてきた世界からの、単純な女性資質からの解放です。 もちろんこれは論旨を得ていません。この論では、目新しさの要素が消えた後、その帰結は、伝統的に女性的であると評価されてきたものが、最終的には二次的で過小評価され、ある意味で劣っていると見なされるようになるでしょう。

これは、リアリズムに根ざした多くの文化、社会と同様に、伝統的なキリスト教、聖書の考え方とはまったく逆行するものです。キリスト教の基本原則は、人間の現実世界には、男性と女性の二つの性しか存在しません。女々しい男性と男勝りの女性が実在してはいても、それには意見があるところですが、それでも彼らは、それぞれ事実に基づいた男性と女性であり、それ以外の何者でもありません。

それぞれの行為については、ある程度お互いの性を模倣することはできますが、これが正しいか間違っているかについても意見があることです。しかし男女の性別が、それが本来の性別以外のものであるとみなされ評価されることは、(神の創造の原理を無視する)人間自体の捏造行為です。それを受け入れて固執し続けることは、悪の方策として計り知れない苦難を招くことになります。



この問題に関して男女の性差とは、それ自体(性別)が仕事や任務の相違を扱う論題ではないことを、心に留めておく必要があります。男女共に等しく上手くこなすことができる作業と仕事は沢山あります。それぞれが必要とされる役割とコミュニケーションによって導き出された結果です。

問題を一つの例で説明するとします。「ある支店銀行の女性支店長が、一流の国際銀行の頭取と結婚している。」この場合、関係する夫婦のキャリアが、夫の職務および妻のその地位をお互いに意識する可能性は割と低いものです。そして、互いの夫と妻の役割において認め合い理解しあって自然体です。

しかし、「女性マネージャーが、評判のビッグイシュー(英国の雑誌、ホームレスの収入源)の売り手と結婚し、彼女が主な稼ぎ手である場合」、伝統的な夫婦関係を維持するための圧力は多少異なる可能性があります。自然で聖書的な夫婦の関係を維持するためには、双方に大きな精神力が必要となるでしょう。

これをキリスト教の原理から捉え、ある種の仕事やキャリアの傾向を無頓着に選ぶなら、それはその性質上、互いに与えられた務を、与えられた男性と女性としての義務に負担をかけたり、試練されたりして、関係の緊張が限界点に達することもあります。しかし同じことは個人の性格の違いにも関係します。しかしクリスチャンである夫婦の関係が、認められ評価されるとすれば、その関係の長寿と幸福に長期的にプラスの影響を与えるという、論拠と信念があります。



冗談じゃない、男だけの世界?」写真はロンドン空港で著者が撮影したもの。

これは女性の攻撃性を称賛し、男性を模倣する行為を表しています。



このポスター広告が伝えようとしているのは、「男性の世界Vs女性の世界」、あるいは「その行動様式に区別を設けるべきではない」。女性は望めば男性と全く同じように機能し行動できるはずだから、という信念です。この写真のポーズから疑問となるのは、「なぜ彼女たちはラグビーをしてはいけないのか?」答えは勿論、「彼女たちがやりたければどうぞ!」です。

しかしこれは愚問です。もっと意味のある質問とは、「なぜ彼女たちはこのような姿勢でアピールする必要があるのか?」です。彼女らの祖父母の時代には、このような行動をしようとは、夢にも思わなかっただろうという見方がなされるかもしれません。前世代のヒューマニストたちには、さほどの自由は保証されておらず、自らの主張を行動に現わす自由は無かったと言います。実際、前世代の女性たちにとっては、そのように束縛されているという事実さえも気づかなかったという可能性が、十分に高いのです。鑑みてその世代の女性たちは、自分たちが男性的だと思われる行為は避けるでしょう。女性として恥ずべきとされているからです。

この写真は、ラグビー選手の男の行動や仕種を真似している若い女性たちの集まりであり、彼女たちは、男らしく振舞うことで「解放された女性」としての自由を、アピールしたいと考えているのです。しかし真実は、(写真の女性たちは)男性の攻撃性を真似しているとはいえ、実際には女性たちであって、性的に混乱した状況を表現したものではありません。この「悪ふざけ」は、広告が、「ラグビーは今や男性に限定されるものではない、」と信じ込ませるのではなく、「写真の女の子たちが男らしさを真似している」というものです。しかしジョークとして済まされないのは、非常に明確で質的に区別されるべき、二つの性別を混同する、視覚的な錯覚があることです。



さらに、女性よりも男性を称賛することは、女性の資質を侮辱したり二次的にしたりする効果へと必然的につながるのです。それは異性への敬意ではなく、むしろ異性への緊張感につながります。この競争心は、最初は生来の指導的立場にある男性としての責任感が引き金となって、本能的な男性の頼もしさという反応を示します。しかしこの傾向の悪影響は男性が女性に対する責任を放棄することであり、男性のヘッドシップを女性は望んでいないと考えます。したがって、フェミニズムと呼ばれる、(女性の男性との同等化)に続いて、サディズム(残虐趣味)と若者の粗野な行動がそれに付随して増加しているのも、不自然な事態ではありません。

対立を避けるために特に男性は、可能であれば女性と距離を置き、策略をもって別のことをする傾向があります。その結果、女性がアメリカの映画監督ハーヴェイ・ワインスタインのような捕食者の餌食になると、男性の反応はその女性に関心がなくなります。なぜなら、問題の女性は自分自身に責任を持つべきで、自分自身が面倒を見るべきだからです。本質的な「性的同一性の論理」は、女性が自立し自由で、女性が選んだことを何でも自給自足できるなら、男性も自分が選んだことをする自由があるという理論に至るからです。それは女性にとって非常に危険な世界を作り出すための方策です。

男女の互換性の概念を受け入れ、現代ヒューマニズム思考を優先する英国国防省は、軍隊における女性と男性の比率を40%にすることを目論んでいます。上記の観察が妥当であれば、同省は予想していたよりも早く目標を達成する可能性があるそうです。軍隊に入隊する女性の割合が増えると、男性は軍への入隊を拒否し、代わりに何か他のことをすることを好む可能性があります。

彼らは、男女が狭い場所に一緒に置かれることで発生する、いじめの予備軍になることを望まないでしょう。また、彼らは、一時的な不見識な性的軽犯罪のために、キャリアを危険にさらしたいとも思わないでしょう。軍隊で女性がいじめられているという報告が増えていることは、本稿の論旨を考えれば驚くべきことではありません。それは人間の基本的に制御不能な本能であり、男らしさが損なわれたり妨げられたりすると認識された時に、あまりにも頻繁にもたらされます。


これは、人間の本性と相互作用の現実を考慮に入れない、哲学的教義に影響された政策の押し付けである驚くべき特徴です。軍隊、警察サービス、消防サービスなどに、男性と女性を本質的に交換可能であり、すべての役割に無差別に開放されているものとして扱うことを義務付ける(強制する)政策は、すべてのサービスで大混乱を引き起こしています。

もし政府が、a + b = 2a(上記97頁参照)という人文主義的な代数的原理を、サービスの人員の雇用方法に適用することに固執すればするほど、いじめや機能不全の社会的結束の事件は悪化するでしょう。事実上、男性と女性は動物として振る舞うように駆り立てられており、それがこの原則の論理的な進行です。(上記「獣姦」p.111参照) 解決策は、軽犯罪に対する罰の厳しさを増すことではありません。むしろ、それは現実によって導かれるべきであり、人間の生活と相互作用の現実を考慮に入れない特定の哲学的原則によって支配されるべきではないのです。

この問題を解決する唯一の解決策は、関係するサービスから女性を完全に取り除くことです。もし政府が、自国の女性を殺すために最前線に置くというグロテスク(異様)な政策を主張するなら、男性用と女性用として、別々の業務を持たすべきです。例えば、女性用潜水艦は、全員が女性乗組員によって勤務すべきで、女性だけで構成された連隊を組織しなければならないことになります。また、すべての女性消防署の概念は、常識に反した非現実性、(a + b = 2a)の公式を適用するフィクション(愚かさ)を強調しています。(人間と動物との)関係をこじらせて獣姦に堕落させるだけでなく、公式を適用することを主張する権威者たちは、現実ではなく虚構の世界に住んでいるのです。これらのサービス(軍や男性中心の業務)における女性の補助的な役割は、非常に限られてます。

これは第一次世界大戦と第二次大戦の間に極限まで利用されましたが、キリスト教の原則である、a + b = a✙bの公式は適合し続けました。それは、昨今のa + b = 2aの原則に合わせるように踏み込み、発展すべきものでは無かったのです。キリスト教の聖書的な考え方にとって、異性の服装を着用することは別の問題としても、文明化された社会が、女性たちを戦場の最前線に配置し、男性たちの身代わりではないにしても、現実に身体の危険にさらされる立場に置くべきだという思想は、極端にグロテスクな邪道であると考えます。



次に問題となるのは、ヨーロッパ啓蒙主義/ヒューマニストの、平等の理解が正しいと信じるのなら、36)女性の司祭職任命に反対する論拠は成り立たないということです。女性の司祭は女司祭と呼ぶべきですが、(英語ではpriestess)上記の観察に関して、司祭とされた女性を女性形で呼ぶことには消極的です。

第一の明白な理由は、女性司祭が、異教の宗教と非常に身近に関連付けられてしまうからです。ユダヤ教・キリスト教の概念として冒頭で述べたように、それは聖書には存在しません。しかし、ここでのより微妙な要因として、女性司祭という言葉は、男性中心主義、つまり女性が男らしさを偽装しているという事実を反映しているだけでなく、「女司祭」というフレーズが司祭/長老の職は男性的であるべきという認識が示唆されるからです。

同様に現代社会では、女優は今や俳優と呼ばれ、女性の管理職ではなく、マネージャーです。言い換えれば、今や皆一つの性であり、人を性別するべきではありません。同様に、女性司祭が一般に認める「司祭」であることを正当化するために、しばしばされる議論を休ませる必要があります。

「彼女はとても良い説教者で、知人の男性司祭よりずっと優れています。」または、「彼女は男性以上に面倒見の良い牧者です。」もちろんこれは特定のケースに当てはまることであり、一部の女性兵士は、大方の男性よりも効果的に敵を撃ち殺す能力があることも事実です。

この論文が示そうとしてきたように、人は「特定のものから一般的なものにではなく、一般的なものから特定のものへと議論し、より広い文脈を理解することが重要と思われます。36)

今まで言及されてきた女性の聖職者資質や、それに類似するその他の人々の事象については常に評価されてきました。かつてのように正しい状況の中で実践される必要があります

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36)上記参照、P. 96


次回は 「法と秩序

2025年 7月