何故女性は聖職者(司祭、牧師)として認められないのか
アイルランド聖公会(伝統儀式堅持)
アイバン・コスビー牧師
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V. 結論
この論文は、女性の聖職者叙階(任命)の存在理由と、その慣行が、聖書には明記されておらず、容認されていないにもかかわらず、現実にはそれが実践されており、そのような現象が起こらなければならなかった理由に注意を喚起し、説明するのに役立ってきました。
一般的には、特にキリスト教徒にとっては、この他宗教の(異教徒の)慣習が、主に西ヨーロッパやアメリカのキリスト教社会で広く容認され、正当化されてきた理由を探索してきました。この中には、これらの地域でキリスト教であると主張する特定の教会も含まれます。しかし、旧約聖書と新約聖書全体を通して、その実践(女性の聖職者が容認される)という、わずかな言及や示唆さえも見当たりません。勿論、イエス・キリストがキリスト教世界でそのような現象があるべきだという言及は一切なく、それを容認すべきだという提案もありません。
一方でこの論文は、聖書の描写からもたらされる、キリストの教えと道徳が遵守されるのであれば、そのようなキリストの教えを不適切にする、実践の理論に注意を向けさせました。
この論文は、女性を司祭職に叙階(任命)するという、いわゆる「現在志向の正しさ」は、聖書以外の他の場所に見出されなければならないことを主張しています。
聖書に描かれている、キリストによる啓示や教えにも、これを正当化する文脈はありませんが、この論文は特に、女性が聖職者とされる場合の正当性について注目しています。このアイデアは、(聖書からではなく)西洋の哲学的思考一般、特にヘーゲルのテーゼの概念、(命題)の実践と適用によって生み出されたアイデアに起源があることが、明確に見られると主張しています。アンチテーゼとその合成については、(*「Ⅱ私たちがどのようにして今いる場所にたどり着いた」の1を参照)。
この論文は、20世紀に、フランクフルト学派思想家と総称されるもので、その思想の多くはヘーゲルにまでさかのぼることができます。この思想の適用は、女性聖職者の採用に好意的な価値観や意見を形成するのに、有益であったことを示しています。そのほか、現代の西洋世界が、キリストからヒューマニズムに改宗することに貢献した、重要な要因ともなりました。
この論文の関心事は、女性が、公認された司祭や牧師であることの正しさに貢献し、考えさせ、信じさせた、人文主義的な哲学的アイデアにのみあります。加えてこの論文は、自由と平等が意味するものを再定義することで、これらの用語のキリスト教の定義からヒューマニストの定義へと変化する中で、女性を司祭職に任命する行為が、原則的ではないものから正常なものへと、どのように変化したかを示しています。
★★★★
演技ハムレットは、間違いなく現代の「マスキュリニズム」に触発されています 前ページ「法と秩序を参照」
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この論文を終えるにあたって、これらの変化の結果を予測することで、どのような社会的行動、あるいは非社会的で品位を傷つける慣行と呼ばれている行動が、それほど遠くない将来には、論理的に正し行動として容認されることに注意を向けました。
50年前、第二次世界大戦後の初期には、同性愛はキリスト教の視点から広く観察され、正常でないとされていました。それは男女間の正常な関係に対する、全能の神の意図を損なうものであり、神と人間の関係をも損なわせる、間違った行為であると考えられ、生殖の自然で安定した、物理的な秩序の点でも間違っていました。同性愛は忌まわしいものであり、社会的結束を破壊し弱体化させるものと理解されて来ました。
しかしこの論文は、キリスト教社会からの視点だけでなく、(同性愛が)実際に存在する現実の観点から、認識と価値観に変化があることを、実証しようと試みています。ヒューマニスト(人間中心的哲学的価値観)に基づく新しい秩序は、予想外の結果をもたらします。これらの結果がどうなるかを見極めるために、(ヒューマニズム思考)論理の進行を推測してみますと、このポスト・キリスト教の文化的秩序は、彼らの価値観が論理的かつ究極的に、どこへ導かれるべきか。或は導かれたいのかを考えているからです。
この論文は、現在の人間中心主義的な価値の秩序が、どこに向かっていると信じるのか、すなわち、それは、同性愛などを含む性的倒錯の正当化に向かっていると考えていることに注目しています。性的倒錯とは、絶対の原則(神の根本原理)を否定するために、正しさを認知するパラメータ(要因)も否定する法則です。この中には、獣姦を含む規定された性的関係と役割が、それぞれの性別に関連付けられ、保持されてきた規定の関係(ノーマルな関係)の役割が逆転すると、結果が生じます。
結果として階層や権威の概念が忌み嫌われているために、世界秩序がある意味で機能し続けることができなくなり、混乱と制御不能な暴力が蔓延することになります。
その状況下では、「動物」の文明とは対照的に、人間は存在出来なくなくなるでしょう。
既にに懸念されるのは、男性の肉体的な強靭さのせいで、無責任で危険で、制御しにくい男性像が出現する一方で、もう一つの局面では、責任ある保護や、権威ある指導権を行使することができない、女々しい男性像も出現することです。この二つの特徴が、世の男性の中に、すでに現れ始めているのを、今日の私たちは見聞しています。
この懸念は、米国で起きている、無差別大量殺戮のなかで、あるいは、原子力潜水艦の乗組員や、消防団員として配属されている男女が、潜在的、あるいは物理的に危険な状況の中で、密集した空間に閉じ込められ、生活していることに、注目するだけで十分です。
また現代、女性側の男装は一般に広まっているため、それがほぼ標準になっています。この慣習は、男性の女装に関しては、まだ初期段階にありますが、既に特定の地域では広く奨励されており、この慣習が主流になると、男性として期待される役割に大きな影響力を持つでしょう。
キリスト教社会の常識として、男性としての責任は、その家族を養い、保護することであると理解されています。その理解は同様に、一般社会の制度や文化のなかでも、現実に基づいたものとして受け入れられており、世界の多くの社会制度や文化に適応しています。言い換えれば、女性が男性の略奪や暴力から守られ保護されるのは、(暴力的または略奪的な女性が少数程度見られるにしても)男性の義務であるべきです。
女性の安全は、成長の最初の段階では男性である父親、夫、兄弟の義務ですが、女性全体にとって安全な世界として女性の幸福を確保する義務は、一般的に男性にあると認識すべきです。
それは、二つの性をもって創られた人間として、安全で安定した社会が目指す、秩序であると確信しています。
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【完】
執筆者 アイバン・コスビー(愛知大学名誉教授 アイルランド聖公会牧師)
日本語文責 岩瀬浩余
なぜ女性牧師は認められないのか
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